こんにちは!近藤です!
今回は世田谷にある松陰神社へ行ってきました!
今回も前編と後編で分けようかと思います!
前編では松陰神社の由来や吉田松陰についてご紹介致します!
まず吉田松陰についてです(^^)
天保元年(1830)8月4日~安政6年(1859)10月27日。吉田松陰は、幕末の思想家、教育者。
天保元年(1830)年、長州藩士杉百合之助常道の次男として、長門国萩(現在の山口県萩市)に生まれました。5歳のとき、長州藩の山鹿流兵学師範の叔父吉田大助賢良の養子となり吉田家を継ぐ。
幼少期から、兵学師範となるべく、兵学をはじめとして、様々な学問を学び、10歳の時には藩校明倫館で兵学を教授し、11歳の時に藩主毛利敬親の面前で『武教全書』の講義を行いました。
当時の世界の形成や日本を取り巻く情勢などにも目を向け、嘉永2年(1849)、20歳のとき外寇御手当御内用掛を命ぜられ、海岸防備の実情を巡視した。翌嘉永3年(1850)、九州の平戸、長崎などに遊学し、諸士と交流を広め、中国及び日本の海防について学んだ。
翌年には藩主に従って、江戸に遊学し、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに学んだ。また、この年藩の許可を得ずに東北遊歴の旅に出て、翌年にかけて、水戸、会津、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、仙台、米沢などをめぐって、見聞、交遊を広めた。帰国後、萩にて7ヶ月の蟄居を命じられる。
嘉永6年(1853)に10年間の諸国遊学が許され、江戸で遊学中にペリーの浦賀来航に遭遇する。藩主に時局への対応策を献策する一方で、海外視察のための密航を企てた。
ロシアの軍艦が長崎に停泊していると聞くと長崎に向かうが、果たせず、翌安政元年(1854)ペリーが再訪すると、米艦に乗り込み密航を懇請するが入れられず、翌日浦賀奉行に自首した。長州藩での幽閉の処分となり、獄に繋がれることとなる。
翌年には、病気療養を理由に、実家の杉家に預けられ、そこで幽囚生活を送ることとなる。この幽囚生活の間に、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など幕末・明治維新に活躍する人材の教育にあたった。
松下村塾は、表向きは漢学塾であったが、松陰自身の実学志向の影響があり、当時の世界情勢や日本の実情、行く末について考究する実践的な思想教育の場であったそう。
安政5年(1858)、日米修好通商条約の調印をめぐって国内が混乱すると、松陰は幕府による勅許を得ない調印を厳しく批判し、藩に訴えかける一方、門下生を各所に派遣し、情報を集めさせる。この際に老中間部詮勝の襲撃など過激な内容も含まれ、藩は再び松陰を入獄させた。
安政の大獄により捕縛された梅田雲浜との関係を問われ、翌安政6年(1859)に、幕府により、江戸へ護送されることとなり、取調べを受けることとなった。この際に松陰は、幕府に対して意見を述べる好機と考え、ペリー来航以来の一連の幕府の政策を批判し、幕府の知らなかった老中襲撃の計画まで自供したため、死罪とされ、伝馬町の牢屋敷で処刑された。享年30歳。
遺体は小塚原回向院に葬られたが、文久3年(1863)正月、門下生であった高杉晋作、伊藤博文らの手により、世田谷若林の長州藩抱屋敷内に改葬された。
ご由緒についてです(*´-`)
松陰神社のある一角は、江戸時代、大夫山あるいは長州山と呼ばれていた。この名前の由来は、寛文12年(1672)、第2代萩藩主・毛利大膳大夫綱広在府の折り、長州藩が若林村の百姓から土地を購入し、抱屋敷を建てたことに由来する。
安政の大獄で死罪となった吉田松陰の遺骸は、当初、小塚原回向院(現在の荒川区南千住)に葬られたが、文久3年(1863)正月、松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文らの手により、頼三樹三郎、小林民部らの遺骨と共にこの地に改葬された。しかし、元治元年(1864)に禁門の変が起こり、幕府による長州征伐が行われると、この地の抱屋敷も没収され、敷地内にあった松陰らの墓も破壊された。
明治新政府が樹立され、明治4年(1868)藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を建て、明治15年(1882)には、旧藩主毛利元徳及び松陰の門人、旧知の者が墓の近傍に社を築いてその霊を祭った。これが松陰神社である。
境内には、吉田松陰らの墓があり、社殿の東側には、松下村塾の建物が再現されています。
松下村塾
吉田松陰先生像
今回は主に吉田松陰についてご紹介致しました。世田谷線にある松陰神社前という駅を降りて少し商店街を道沿いに歩いてすぐ松陰神社前はあります(*'ω'*)
学生の時に毎年年始に家族で行っていました!
今回久しぶりに行ってみてだいぶ神社がきれいになっていたので驚きと懐かしい気持ちになりましたね(*´ω`*)
次回はちょうど行った時にその時期しか見れない行事についてご紹介致します!(*´꒳`*)
ではまた来週に〜